【つぶやき】駆除される熊から考える、私たちが「簡単に処理」してはいけない違和感

女性セカンドライフ、暮らしのヒント

正直に言うと、最近、世の中を見て「ん?」て思うことがあります。人里に下りてきた熊の話なんですが。あのニュースを見て、あなたの心はざわつかなかったですか?

始めに

まず、最近の熊の出没で、農作物の被害に遭われた方、怪我をされた方、そして大切なご家族を亡くされた方に、心からお見舞いを申し上げます。

**人々の安全が優先であることは、大前提です。**

 その上で「熊が出たぞ!」「そうか、じゃあ猟友会の方を呼んで。。」みたいな短絡的な図式をまるで世間の正解かのように受け入れてしまってはいないでしょうか?ニュースで『駆除』という言葉を目にするたびに、遠くにいる私でさえも、拭い去れないある種の違和感を覚えたり、なんか変!って疑問を持ったりしてしまうのです。

1 熊の命を「簡単に処理」する社会の効率至上主義

安全確保のために最終手段として『駆除』が選択される。。。それは私だって理解できます。でもそれが「安易な第一手段」になっていませんか?って思うんですね。だって、「安全の確保」と「命への配慮」って両立できるよ!って思いませんか?私は思います。だから『駆除』ってどうなの?って。。そこが違和感なんですね。

次に「もっとも懸命な共存への道」というのを探る努力ってしましたか?**「思考のプロセス」**が何かしら省略されているんじゃないですか?って疑問が残ります。

もちろん、感情論ではありません。「かわいい熊ちゃん殺しちゃうなんて可哀想~」みたいなことをいっているんじゃなくて、私たちが日常の中でつい見過ごしてしまう「命が持つ価値と優しさ」に対する本質的な問いかけです。

ここで私がいってる「優しさ」とは**自分の都合や恐怖心だけを基準にせず、相手の立場や存在そのものを認める寛容さ**です。熊が人間の生活圏を荒らす「敵」としてだけでなく「そこに存在する生命」として尊重されるべきだってこと。人間の安全確保と同時に「簡単に命を断ち切らないための工夫」を諦めちゃだめでしょ!って思うんですね。

そして、「なぜ熊は里に来たのか」という、熊側の環境の変化や切実さを想像してみましょう。自分の安全を最優先にしつつも、**「人間側にも共存の責任があるのではないか」という視点を持って、もう一度ニュースを見てみましょう。

2 私たちが忙しさで『駆除』してしまいがちな「小さな心の違和感」

被害者の方々の悲しみや恐怖は計り知れない。と同時にその恐怖の裏側であなたの心にも『命が奪われることへの違和感』という感情が芽生えたら、それは簡単に『駆除』してはいけないと思うんです。自分の正直な感情を無視しないこと、自分の心を守る。自分に優しい人は他者や自然にも優しくなれると思っています。外側(熊)と内側(自分)の両方に配慮できる人だから。。

まとめ

私は専門家ではないのでとうてい解決先なんて出せません。ただ今回のニュースで「命の価値」や「心の声」を効率という名のもとに簡単に手放してはいないかを立ち止まって考える機会を与えられたのではないでしょうか?自分の心地よさも、誰かの安全も安易に駆除されることなく、最大限に尊重される世界であってほしいと願うばかりです。

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